【長宗我部の庭】日本の城めぐり(50) 埼玉県・忍城
長宗我部の庭】日本の城めぐり (50)   埼玉県・忍城
2016.12.1

難攻不落の浮き城

三層の天守閣を復元

長宗我部友親

 

 

 忍城は、利根川水系に源を発する忍川(おしがわ)流域の低湿地帯に囲まれる格好で、沼を自然の濠としてできている。本丸と二の丸の間などが橋でつなげられていて、「忍の浮き城」とも、別名がつけられていた。攻めにくい城といわれ、上杉謙信の二度の攻撃にも耐えている。
 忍城は延徳2年(1491年)、土豪の成田親泰(なりた・ちかやす)によって築城されたと伝えられている。

  豊臣秀吉は、天正18年(1590年)、天下統一の詰めとして北条氏攻めを決意した。このときの忍城の当主は成田氏長(なりた・うじなが)で、北条氏側についていた。
  秀吉に忍城攻めを命じられたのは石田三成であった。三成は2万3千の大軍を構えて忍城に対した。
  しかし、氏長は小田原城の北条氏のもとに籠城していたため、このとき忍城には氏長の妻と3千ほどの兵士ら残留組しかいなかった。 
  にもかかわらず、忍城はなかなか落ちなかった。攻めあぐねた三成は28キロにも及ぶ堤防を築いて、利根川の水を引き入れて水攻めを敢行した。だが、それでも忍城は落城せず、秀吉の小田原攻めで、唯一落城しなかった城として知られる。

 結局、秀吉の小田原攻めで、北条氏が滅び、徳川家康の関東入りが決まった。それに伴い、三河以来の譜代である松平家忠(まつだいら・いえただ)が、成田氏に代わって、忍城主として入り、忍藩を立藩した。
  家忠は文禄元年(1592年)に、下総国上代に転封となって、代わって家康の4男の松平忠吉(まつだいら・ただよし)が忍城に入った。だが、忠吉は関ヶ原 の戦いでの功によって尾張52万石の城主となった。このためこれ以降、しばらく、忍領は天領、あるいは旗本領となり、忍城には城番が置かれることとなっ た。
 その後、寛永10年(1633年)には,老中で、知恵伊豆といわれた松平伊豆守信綱が入り、忍藩政が復活、以降、阿部忠秋(あべ・ただあき)など幕府の要人が忍藩を治めている。

  行田市はかつて忍町と呼ばれていて、足袋の製造工場が多い。もともと忍藩の下級武士の一家や、農民が内職として足袋を作り、それが発展した。昭和63年には忍城の三層の天守閣が復元された。


 

イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

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