応募エッセイ


 青山さん
                           柴田和也

「おや、お宅は初めて見る顔だね。お名前は」
「柴田と言います。よろしくお願いします」
青山さんとは、毎朝決まってこんな挨拶を取り交わす。この老人ホームに来て、僕が担当になって、もう二年の付き合いだった。他のスタッフの名前も顔も覚えているし、日常の生活でもわりとしっかりしている。でもなぜか僕に関する記憶は一日もたない。今ではもうすっかり馴れて、気にならなくなったけれど。 ここには、様々なおじいちゃんおばあちゃんがいる。細かいことを気にしていたら仕事にならない。そういう場所だった。

ところがある日のこと。
「おはよう柴田さん。今日もいい天気だね」
初めて青山さんが、一日経っても僕を覚えてくれていた。よくわからないけど、スタッフのみんなから祝福の言葉を掛けられ、僕はただただ苦笑いするしかなかった。

その日、青山さんの家族がそろってお見舞いに訪れた。久しぶりの家族との触れ合いを邪魔しまいと、僕は静かに部屋を出た。
そしてしばらくして、廊下で子供の泣く声が響く。心配になって駆け寄ると、青山さんのお孫さんがお母さんに慰められていた。
「おじいちゃん、ナナちゃんのこと忘れちゃったよ」
その原因はもしかして僕にあるのだろうか。まさか考えすぎだろうと思っていたら、みんなから同情の目で見られてしまう。それに加え、ちょっと意地悪な先輩からは、原因もはっきりしてないというのに非難の嵐。自分がいったい何をしたのかと、反発したい気持ちをあったが、なんとなく言い返せなかった。
鼻を啜りながら帰っていくナナちゃんの後姿に、ごめんなさいと心から謝罪する。
「いやいや、家族と過ごす時間はいいですね。ねえ、柴田さん」
背後から青山さんに声を掛けられる。二人で並んで青山さん家族を見送った。
「青山さん、お願いですから僕のことを忘れてください」
青山さんは僕の言葉の意味が掴めず、実際に見たことはないけど、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
「柴田さん。何ですかそれは。恋人の別れ話じゃあるまいし。まだお若いのに、ボケるには早いでしょ」
そう言って青山さんは声を上げて笑う。机の引き出しと同じように、脳にだって容量があるはず。何かを入れれば、何かを取り出す。お年よりに関係なく、それは若い僕らでも同じこと。僕をしまってくれたのは嬉しいけど、何もお孫さんを取り出さなくても。
この仕事は、本当に日々いろんなことがある。特に今日は、何だか疲れる一日だった。

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夫婦の履歴・・・「ヤバイ、ヤバイ」

 


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