ブックレビュー
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「駐日米国大使 ジョセフ・グルーの昭和史」 
  
 太田 尚樹 著
 PHP研究所 281ページ(1700円 税別)
 




日米決戦の回避に奔走


 駐日米大使、ジョセフ・グルーが着任した昭和7年6月から、日米開戦がはじまった翌年の6月の退任までの緊張感溢れる「昭和史」である。ボストンの厳格な英国風の家庭に育ち、夫人の祖父はペリー提督。少女時代、東京で過ごす。夫妻は大の日本びいきだった。

 グルーは赴任途中の太平洋上の船中で5・15事件を知る。国際連盟の脱退、2・26事件、日独防共協定調印、廬溝橋での日中衝突、そして日米開戦へと向かう時代の幕開けである。

 グルーは、国益を代表する米国大使として天皇側近から重臣、実業家、海軍将官らと幅広く交流する一方、日米開戦を回避しようと精力的に奔走した。例えば本国に経済制裁、石油禁輸の自粛を求め、近衛文麿首相に、日米衝突を回避するため、ルーズベルト米大統領との会談を提案する。

 グルーから国務省に届く膨大な電報は、日本を孤立に追い込まないよう、自制を求めるものが多く、「大使は日本に肩入れしすぎる」と、非難が出た。このトップ会談は実現されず、近衛内閣は瓦解する。米公文書館の外交文書の詳細な分析などから、著者は、天皇は英米協調派だったが、近衛はドイツに親近感を持ち肌合いの違いがあったと見る。

 また広田弘毅首相は、城山三郎の小説「落日燃ゆ」で、国難を背負って立つ指導者に描かれているが、外相時代の広田は、満州国独立問題で要求を上乗せするなど、参謀本部や陸軍省の強硬派さえ首をかしげるほどブレがあったという。 

 当時の新聞は反米感情を煽りに煽ったらしい。グルーは米国内の反日派の勢力に口実を与えかねないとして、何度も政府に自粛を申し入れている。新聞は「報道」から「宣伝」になり、中には「陸海軍報道部○○新聞支局」と揶揄(やゆ)されるものまであったという。

 グルーは昭和17年に11年に及ぶ勤務を終える。帰国後はトルーマン大統領に日本への原爆使用の中止を働き掛けた。戦後は天皇の戦争責任を追及しないよう各方面を説得して回った。また知日派を集めて「米対日協議会」を設立、占領政策の是正にも動いている。

 最後にグルーの日本及び日本人観だが、日本人の細やかな神経や災害や災難に耐える忍耐強さなどについて絶賛する。しかし戦争をするのか協調路線かなど根本命題になると、真剣な議論を避けて、その場の空気で決めてしまう。そして新聞も含めて一気に走り出すーと、分析する。日本人と指導者に対する鋭い観察眼が光る指摘だ。

 吉田茂は「グルーは本当の意味で知日家だった」とたたえるが、本来の知日派とは、長所だけではなく欠点も指摘してくれる人を言うのだろう。

 翻って原発エネルギー問題、消費税増税などは、国民の権利義務に関わる根本問題であるはずだ。しかし根本的な議論は避け、その場の勢いで処理されていく感じを受ける。残念ながら親日派、グルーが70年余り前に鋭く指摘した日本人の欠点は、まだ克服されないでいる。  


  2013年7月31日(水)

栗原 猛(くりはら・たけし)
朝鮮生まれ。新聞社記者を経て、マスコミ志望の学生と活動中。著書は「改革はなぜ進まないか」、編著に「私の後藤田正晴」「評伝 奥野誠亮」など。

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